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曹洞宗 芳林山 戒翁寺

戒翁寺についてABOUT

曹洞宗 芳林山 戒翁寺かいおうじは、天暦元年(947年)京都より歌人が下りて来て草庵を造り移住したことに端を発するといわれ、応永15年(1408年)出家僧の順覚が草創したとも伝えられております。

当寺の位置する川崎市麻生区早野は、片平地区を流れる片平川を源流とする麻生川と町田市鶴川地区を流れる真光寺川が合流し鶴見川となる地点傍の下流に在り、古くから開墾と農耕の歴史が営まれた地域でもありました。
天正年間(1573~1592年)に、片平の夏蒐山修廣寺三世 貴山玄頓大和尚を招き開山、山号を富永重吉とみながしげよしの法名に由来し芳林山とし、院号を向嶽禅院と称す。如意輪観世音菩薩を本尊として発足しました。その後、寛永5年(1628年)に富永主膳重吉76歳の時、堂宇を再建し開基となりました。

富永重吉とみながしげよしは、先祖が宇多源氏系佐々木氏庶流富永で、六角家に仕え六角家滅亡後、北条氏に仕官しました。数々の勲功を立てましたものの、豊臣秀吉に敗れ・北条氏直に従い高野山に登られました。その後、徳川家康により朝鮮の役に召され、兵法、武術に秀でた重吉は、文禄3年(1594年)に都筑郡早野村250石の地を賜り、早野の領主として地を治められました。以後関ヶ原の合戦(1600年)、大阪夏冬の陣(1614・15年)に参加し、屋敷奉行や御鎗奉行として歴任した大旗本であった。1646年12月16日96歳で亡くなり、戒翁寺に埋葬されました。慶安2年(1649年)には、この地域では珍しくも戒翁寺は御朱印(地)五石五斗を徳川幕府より拝領しています。現在もそのお墓は殿様墓として残っております

明和3年(1766年)に殿様墓の南側四間四面観音堂を焼失した。観音堂の「お堂の山」と言うことで『おど山』と呼ばれてもいた。
明治33年(1900年)寺は火災で焼失、その後近くの草ぶきの農家を現在の横浜市寺家町よりこの早野の地に移築再建されました。太平洋戦争中には大島国民学校の疎開児童33人を受け入れていたという歴史もある。その後、昭和58年(1983年)に庫裡、客殿が新築再建される。平成6年に現本堂を新建築して今日に至ります。

境内には延宝8年(1660年)造立の庚申塔と六地蔵があります。また村人に俳句の指導をしていた守谷宇吉(鶴見翁)の句碑があります。

ひとりおれば つるみ 花のおちる音 きこえけり


31世大乗定彦大和尚(2008.12.30故清水定彦)
32世乗雲慈光大和尚(2021.9.15故清水慈光)

殿様墓(四基の五輪塔)

都筑つづき郡早野村の領主であった富永重吉の一族が眠るお墓である
初代重吉しげよし、夫人(北條家の臣高橋和泉守秀治が女)、二代重師しげもろ、三代師勝もろかつの四墓(四基の墓塔右側より)

戒翁寺の開基である主膳即ち重吉のお墓 安山岩製の五輪塔は、高さ222cmもあり台座は別石ではあるものの、1つの石より五輪が造られているようです。正面にそれぞれ「空・風・火・水・地」の梵字である「キャ・カ・ラ・バ・ア」と刻まれております。
台座は、側面に蓮を浮き彫りにする方形のもので、“地”輪の部分は、高さが横幅より大きい直方体である“火”輪の部分は、軒口が垂直に立ち上がっている

富永主膳源朝臣安吉 芳林院殿喜翁宗歡居士 正保三丙戌年十二月十六日
と刻まれており九十六歳で亡くなる

大名・幕臣の系譜の書で幕府編纂の「寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ」によりますと、富永重吉は、北條氏康(三代)、氏政(四代)、氏直(五代)の家臣として仕えた戦国武将である。

《北條家武田勝頼と合戦のとき、勝頼朝比奈又太郎某を伊豆國湯川の城に籠しむ。のち其城をさりてかへる。このとき戦ひて高名す。そののち由良信濃守國繁と上野國新田にをいて相たたかふのとき、氏康の使として其陣にいたりて戦功あり。また佐野宗綱と合戦して退くとき敵跡を遮る。重吉等計略をもつて軍を全うしてかへる。のち皆川山城守廣照を下野國大平山にをいて合戦し、また宇都宮國綱と戦ひ、あるひは佐竹義重と下野國沼尻、常陸國筑波等の合戦にも軍功をあらはす。其後武蔵國神名川にをひて瀧川一益と戦て高名あり。天正十八年小田原籠城のとき中村式部少輔一氏が陣、水の手の邊に柵をゆふ。重吉一人山の神戸大手より城外の谷底に出、銕炮を放ちて兵一人を打とり、また山の神戸大手を出て夜討して蒲生氏郷が砦をやぶり、つづいて其陣所のをしよせ相戦ふてしりぞく。落城ののち氏直に随従して高野山へのぼる。文禄元年伏見にめされ東照宮に拝謁し、名護屋陣のとき供奉し、三年武蔵國都筑郡の内にして采地二百五十石をたまひ、慶長五年上杉景勝御征伐のときしたがひたてまつり、下野國小山にいたり、また關原御陣に供奉し、のち伏見城の番衛をつとむる。其のち大坂兩度の役にも扈従す。元和八年八月御普請奉行となり、武蔵國埼玉郡のうちにして五百五十石の加恩あり。後屋敷奉行をかねつとむ。寛永五年常陸國行方郡におもむき、論地を撿せしにより時服二領をたまふ。九年六月二十五日御鎗の奉行に轉じ、七月朔日同心十人あづけらる。十年十二月二十八日甲斐國山梨郡のうちにして五百石を加賜せられ、すべて千三百石を知行す。二十年三月二十六日仰をうけたまはり、常陸國下舘に赴く。重吉壮年のときより兵法を習練し、また剣術に長じければ、常に大猷院殿の御前にめされ、兵法剣術等の事をきこしめさる。後その剣術子孫に傳へて富永流と稱す。正保三年十二月十六日死す。年九十六。法名宗觀。采地都筑郡早野村の戒翁寺に葬る。これ重吉かつて開基せしむるところなり。妻は北條家の臣高橋和泉守秀治が女。》と記されている。

番目のお墓は、重吉の三男である師勝の墓塔です。高さ185cm程
丸い水輪の球は上下に切られて造られている 台座は単弁の反花座であり、“地”輪の部分が立方体に近い形である“火”輪の部分は、軒口は上にいくほど外側に拡がる形である
【高雲院殿昌岳良繁居士 寛文十二壬子年霜(11)月十九日
(左側)冨永孫左衛門尉泰賢】と刻まれており五十六歳で亡くなる

番目のお墓は、重吉の妻の墓塔です。重吉のお墓同様に一つの石で造られており、194cm程である。
とても風化がひどいです

常性院殿妙祐禅定大姉 寛文元年七月九日没
と刻まれていたようである歳は不明

番目のお墓は、重吉の長男である重師の墓塔です。高さ227cm程
師勝の五輪塔同様にそれぞれ別の石で造られている
【靈松院殿無岸鐵心居士 寛文二壬寅年極(12)月廿八日
(裏面)御鑓奉行冨永主膳正源光忠 六十歳丙極月廿八日卒】と刻まれており六十歳で亡くなる

上記の『諸家譜』によれば、重師の弟の重利、重元、泰員やすかず泰通やすみちは上野東叡山寛永寺の子院、護国院に葬られたと記されている。

≪「平成七年三月 川崎市文化財調査」より斎藤彦司さん 老人会会報「春秋会だより」で会長の長谷川尊明さん執筆 平成14年2002年7月5日神奈川新聞掲載「都筑の丘 今むかし」「平成十六年四月 川崎地名辞典」などを参照≫